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御城印第3弾(重複申込等キャンセルによる22セット再販売 6/14午前9時~)

¥2,000 税込
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本年1月に本市本町一丁目の工事現場で前橋城大手門の石垣が発掘され、前橋市では、この機会に令和3年9月5日まで粕川歴史民俗資料館※において企画展「前橋城大手門現る―発掘された前橋城―」を開催(現在、まん延防止等重点措置区域のため休止中、6月16日再開予定)しています。
 このオンライン限定販売の御城印には、「訪城記念」が印刷されておらず、ご購入の御城印を企画展期間中に粕川歴史民俗資料館にお持ちいただければ、改めて「訪城記念」印が押印できます。
国内でのコロナウイルス感染症が収まらない状況ですが、感染対策にご注意いただき9月5日までに前橋をご訪問いただき、前橋城址をはじめ新たに発見された前橋城大手門石垣にまつわる企画展示や大胡城跡、膳城跡など、前橋の歴史ロマンを感じていただければと思います。
 また、7月25日に開催される「近世城郭を探る(講師:日本城郭協会理事 加藤理文氏)」では、当日に限り会場(粕川公民館)で店舗販売用特別版限定セット販売を行います。その翌日からは、前橋物産館で販売を継続します。
 前橋市物産振興協会では、前述のとおりオンライン販売以外にも前橋城大手門石垣発掘を記念して7月25日以降に前橋物産館(JR前橋駅構内)など店舗販売用特別版限定300セットを販売します。
※粕川歴史民俗資料館HPはこちら
【今回の御城印の特徴】
一、前橋城大手門発掘記念御城印は、初代前橋藩主酒井重忠公が築城した厩橋城縄張絵図の大手門を背景とした金家紋の御城印
二、戦国時代に争奪を繰り広げた名だたる戦国武将の金家紋を配置した特別版大胡城御城印
三、鎌倉時代初期からの支配した豪族の膳氏が治めた金家紋を配した特別版膳城御城印
四、関ヶ原の戦いの武功から徳川家康より「汝に関東の華をとらす」として厩橋藩主となった江戸幕府の重臣酒井重忠公の金家紋を配した特別版武将印
五、戦国・三国志武将イラスト第一人者の長野剛氏が描く上杉謙信公特別印を1枚お付けする特別な特典です。

【商品内容】

商品説明
商品名 御城印 前橋城大手門石垣発掘記念 特別御城印セット
、大胡城、膳城)、武将印(酒井重忠公)4枚1組
※ オンライン販売のみ特典(戦国・三国志武将イラスト第一人者の長野剛氏が描く上杉謙信公特別印を1枚進呈)
販売時期

オンライン販売:令和3年6月1日(火)午前9時から
重複申込等キャンセルによる22セット再販売いたします。
6月14日(月)午前9時より販売開始
発送予定日は、6月18日(金)

店舗等での販売:令和3年7月25日(日)から
販 売 数 オンライン限定300セット、店舗販売限定300セット
販 売 額 オンライン販売2,000円(郵送料込み)、店舗販売1,500円
販売方法 オンライン販売:前橋物産館ヴェントマエバシ オンラインショップサイトを利用
店舗等での販売:粕川公民館(7/25のみ)、前橋物産館(7/26~)

前橋城(厩橋城)
前橋城(古くは厩橋城)は、関東の七名城の一つに数えられた渦郭式の平城。室町時代中期の15世紀末期の箕輪城主長野氏によって築かれました。北の越後、西の信濃と関東方面への入口を抑える要衝として戦国時代は、北条氏、上杉氏、武田氏、織田の滝川氏、徳川の平岩氏などが支配する群雄割拠の城でした。特に、軍神と呼ばれた関東管領の上杉謙信が13回とも言われる関東出兵の際に在城、越年した城です。
江戸時代には、徳川家の重臣酒井重忠は、徳川家康より江戸の北の守りの要として「汝に関東の華(はな)をさずける。」と厩橋藩を託され、厩橋城を三層三階の天守閣を有する近代城郭へと大改修しました。17世紀中期から18世紀初頭、厩橋の地名は前橋に改名され、前橋藩、前橋城となりました。酒井氏は老中や大老など幕閣の要職を務める名門でした。寛永2年(1749年)に姫路藩の松平家と前橋藩の酒井家が入れ替わりで転封となり、明治維新まで松平家が前橋藩を治めました。
前橋城は、酒井家の頃から利根川の浸食の影響により本丸移転など厳しい状況にあり、松平家になった後に本丸崩壊の危機となり、松平家は前橋藩の飛び地の川越城に移り、前橋藩の領地は川越藩の分領として陣屋支配となりました。
その後、横浜開港以降の前橋は、特産の生糸の輸出により財力を回復し、これに伴い藩主松平直勝は幕府に前橋城再築を願いました。慶応3年(1867年)江戸幕府が最後に築城許可を出した再築前橋城が完成。銃や大砲による戦いを想定した函館の五稜郭などと並ぶ当時の最新式城郭となりました。

大胡城
大胡城は大胡氏の居城であった。大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、鎌倉初期に地域の有力な支配者であった。現存の城趾は近世大名牧野氏の城主時代のもの。
大胡氏は、牛込城(現財の東京都新宿区)に移り、後北条氏の江戸衆として苗字を大胡から牛込と改めた。
新田金山城主横瀬国繁の配下の益田氏が居城、その後、大胡一族の上泉氏子孫の上泉信綱など上泉氏一族などが城主といわれる。上杉謙信配下の北条高広が城主となった後、武田勝頼配下の大胡高繁が城主となる。武田氏も織田信長に攻められ、織田家臣滝川一益が上野一国を与えられ厩橋城に入り大胡を支配した。本能寺の変後は滝川一益は北条氏に敗れ、北条の支配下となる。その後、後北条氏も小田原征伐で敗れ、徳川家康が関八州の支配者となって、徳川氏家臣の牧野康成が2万石で大胡城の城主となる。
牧野氏は越後長峰に転封され、大胡領は前橋城主酒井氏の管轄となった。

膳城
鎌倉初期の公家・三善康信の子孫である地域の豪族膳氏により、15世紀中頃に築城、長享元年(1487年)には既に存在。山上氏の山上城とは近い関係にあり、山上城と膳城は別城一郭の構えで戦国期資料にも善、山上と併記されている。
膳氏は、関東に進出した上杉氏配下を経て、小田原北条氏に城を攻め落とされ、河田備前守が城主となり北条氏の拠点となった。
天正8年(1580年)、御館の乱で武田勝頼軍は、上杉景虎派の厩橋城を制圧し、そのまま赤城山南麓の大胡城・山上城・伊勢崎城を攻略。武田勝頼軍が膳城付近を甲冑など身に着けていない無防備な軽装で通過した際、膳城の一部城兵が武田軍に攻撃を仕掛けてたため武田軍は軽装のまま城を攻め落とした。これが「膳城素肌攻め」と後に武田軍の武功として語り継がれた。

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